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【第2619例会】新入会員卓話(2018年3月15日例会)

例会プログラム:新入会員卓話

卓話者:佐々木 伸二 会員(中電工 広島中部支社 支社長)

佐々木 伸二 会員

皆さんこんにちは、昨年9月7日に入会させていただきました、中電工 広島中部支社の佐々木です。
本日は、貴重なお時間を戴きありがとうございます。
人前でしゃべるのはあまり得意ではありませんので、耳障りなところもあるかと思いますが、どうぞご容赦くださいますようお願いいたします。
まずは、自己紹介ということで、生まれてから中電工に入社するまでのことを色々経験したことを元にしゃべらせていただき、次に中電工の紹介と私の中電工での仕事についてお話しさせていただきます。
時間が有れば、以前のロータリー経験についても話せれば幸いです。
それでは自己紹介させていただきます。私は、昭和36年11月13日生まれの満56才です。生まれは現在の広島県安芸高田市美土里町です。生まれたときは高田郡美土里町でしたが、平成16年に高田郡内の6町が合併し現在に至っております。
美土里町は昭和31年に4村が合併して出来ましたが、漢字では美しい土の里と書きます。なぜこのような町名にしたのかは、私もまだ生まれていませんでしたので良く解りませんが、一説には初代町長の娘さんの名前ではないかと言われています。
美土里町の有名どころでは、神楽門前湯治村という神楽の舞を観賞できる所があり、宿泊や食事もとれる場所となっています。広島県北部や島根県では、神楽が盛んで、私も小さいころから秋祭りでの神楽を良く見に行っていました。ただ、湯治村での神楽はまだ見に行けていません。機会が有ればもう一度美土里町の神楽を見に行きたいと思っています。
自己紹介に戻ります。私は、地元の小・中学校で学んだ後、高校は北広島町の新庄高校に行きました。現在では高校野球で有名ですが、私が通っていたころは弱小野球部でした。
実は、私も高校1年生の1年間だけでしたが、新庄高校野球部に在籍しておりました。3年間全うしておれば、OBと言う立場を利用して、永川に球場の席を確保してもらえたかもしれません。
進学先を色々模索しておりましたが、東京・大阪都市圏の工業系大学を目指し何校か受験しましたが、結局大阪工業大学の電気工学科に進みました。大学では、とてもまじめとは言えない学生で、1年からほとんど授業に出ず、部活とバイトで1日が終わるという生活を繰り返していました。基本的に体を動かすのが好きだったことと、これまでやる機会の無いスポーツと言うのが決め手となり、アメリカンフットボール部に入りました。今でも日本ではマイナーですが、ご存じのとおり、本場アメリカでは大変な人気となっています。大阪工業大学のチームは、入部当時は、ひょっとしたら今でもかもしれませんが、関西地区の2部リーグに所属していて、相当な弱小チームでした。通常のアメリカンフットボールの試合では、オフェンスチームとディフェンスチームに分かれて試合を進めますが、弱小大阪工業大学チームは、人数が足りないためほぼ全員が両方をこなさなければならず、毎試合大変しんどい思いをしました。残念ながら在学中に部員が大幅に増えることはなく、しんどいだけの4年間でした。4年になると、卒業研究や就職活動等で忙しくなりましたが、秋の公式戦終了まで全うすることができ、充実した4年間だったと思います。
又、大学生活では、常に金欠状態だったので、風呂無しで共同便所の4畳半一間、家賃が月1万円という、築数十年と思われるボロアパートに住んでいました。数年前何を思ったか、当時住んでいた周辺をグーグルマップで探していましたら、当時のままの玄関先の写真を発見し、大変驚きました。卒業して30年以上たっているのに未だ残っているとは・・・なかなか大阪に行く機会が無いのですが、もう一度行ってみたいと思っています。
若干遅めの就活ではあったんですが、縁あって中電工に就職することが出来ました。

次に、中電工の紹介をさせて戴きます。
弊社の社是は、真心です。「偽りなき真実の心」・「正直にしてわだかまりなき心」・「純粋な心」・「私心なき心」と、この4つの心を一言「真心」と表し、企業文化の醸成を図っております。ロータリーの4つのテストとも通ずるところが有るのではないかと感じております。
設立は、昭和19年9月29日で本年で74年となります。従業員数は3,600人余り、売上は約1,300億円です。
本クラブでの職業分類では電気工事となっておりますが、電気工事以外にもいろいろな仕事をしています。中国電力様の配電線電路の新設や維持工事を主として行う配電線工事部門と、一般のご家庭から大規模ビルや工場まで様々な建物の電気設備・空調衛生設備・情報通信設備等を行う一般設備工事部門が主な仕事の中身です。又、関連子会社では、島根県でのいちご栽培や、世羅町でキャベツ作りといった農業分野にも進出しております。
配電工事部門では、主に道路を使用した作業となり、皆様の交通を妨げており、大変申し訳なく思っておりますが、皆様のご理解により何とか仕事を進めることができておりますこと、感謝申し上げます。
一般設備工事部門については、私の職歴と合わせてお話しさせていただきます。
私は、昭和59年4月に当時の名称の中国電気工事株式会社に入社しました。当時は、安芸高田市の八千代町にあった、研修所で約1年間研修を行いました。研修中はボウズ頭にしなければならず、高校1年以来6年ぶりのボウズ頭は、結構恥ずかしい思いでした。
私が入社した時期は、第2次オイルショックの影響から回復しきれていない時期で、採用人数が少なく、同期入社は24人しか居りませんでした。その中で私は10名の内縁工事要員の一人として採用されました。他には事務系が7人、管工事系が5人、通信工事系が2人で、配電工事部門の採用はありませんでした。今では、高齢者の退職がピークとなり、それを補うため多くの若者を採用しようといろいろPRしておりますが、どの業界も人手不足で、なかなか計画通り採用できていないのが現状です。今年4月入社者は、予定人員150名に対し、内定者135名となり15名不足となりました。
私の職歴に戻します。研修を終えた私は、出身地である安芸高田市の営業所に配属となりました。当時の名称と現在の名称が有りますが、当時と現在で分かりにくいので、現在の名称に統一させていただきます。安芸高田営業所では、主に現場作業に従事しており、実際に住宅内のケーブルを配線したり、照明器具やスイッチ・コンセント等の取り付けを行いました。今ではあまり見かけなくなりましたが、塗り壁の住宅も多くありました。塗り壁の下地は竹を縦横に組み合わせたもので、それに土に藁を混ぜた粘土のような土を塗って壁にします。配線はその土の中に入れておりましたが、今でもそのようにしているのかは良く解りません。1年ほどして今度は三次営業所に移動となりました。三次営業所では、コンクリートの建物の電気工事を行いました。鉄筋の間に電線を入れる配管を通し、コンクリートを打ち終えたらその中に電線を通し、壁や天井が仕上がったら器具を付けるという流れです。建築工程に合わせその都度必要な工事を行い、完成させるという工程管理の初歩を学んでいきました。また1年半たったころ、上司から東京へ応援に行ってくれと言われ、約半年東京の現場に現場管理者として従事しましたが、建物の規模がまるで違い、大変大きなビルの現場でした。その当時ですが、電気工事の請負額が40億円だったと思います。ちょうど東京ドームができたころで、オフィスビルでは、インテリジェントビルの走りの時期だったと思います。私が携わった現場も保険会社の電算センターで、やはりインテリジェントビルでした。その現場の経験が後に20年にわたる私の現場代理人としてのベースであったと思っております。
その後応援期間中に内示があり、応援終了後に現在の広島中部支社に転勤となり、平成23年に山口に転勤になるまで24年間当地で勤めております。実は、私が東広島に来ることになったのには、理由があります。私は、就職後間もなくして、養子となりました。養子先は母の実家で、跡取りが不在となったため致し方なく養子となったものですが、その家が志和町の佐々木という家です。養子には行きましたが、すぐにはこちらには住んでいませんでした。東京応援中にいろいろあり、養子先の近くの営業所に転勤したことで、養子先に住むようになり、今に至っております。
東広島での仕事は、電気設備工事の現場代理人です。現場代理人とは、工事現場で契約者に成り代わり無事工事を完遂させるための権限を与えられたもので、わかりやすく言えば、その現場の社を代表した責任者ということになります。私も最初はベテラン代理人を補助し、指導されながらそのうち1人で現場を収められるようになりました。
この間工事データを確認しましたら東広島で約100件の工事を担当しておりました。その中で代表的な建物を紹介しますと、古い順にサイエンスパークにあります国際協力センターや、広島大学国際協力科の校舎、そして皆さんも一度は足を運ばれたかと思いますが、広島大学内にありますサタケメモリアルホール、さらに現場代理人を卒業する間際まで携わっておりましたのが、私の母校大阪工業大学の系列校で、黒瀬町で開学しました、広島国際大学です。開学当初から色々と係わり、実際に担当した建物では東広島キャンパスの講堂と、呉キャンパスの薬学部校舎が有ります。
その後は、平成16年より電気工事の係長を4年、課長を3年努め、平成23年からは、慣れ親しんだ東広島を後にし、山口県での生活がスタートします。
山口での最初の仕事は、東広島同様に電気工事部門の課長として、所属員を監督しておりました。管轄エリアも広く、山口市を中心に、防府市・宇部市・下関市・萩市・長門市となり、あと美祢市と小野田市もありました。山口県の西半分をモーラしたエリアは大変広く、移動にも時間がかかり、大変苦労したものです。自治体にそれぞれ営業所が有り、電気工事のスタッフが日夜業務に励んでおりましたので、私は電気工事を統括する立場でそれぞれの営業所の状況把握や指導にあたっておりました。山口に行ってから、初めての単身赴任を経験させていただき、とても良い経験になりました。本当はずっと単身を継続したかったんですが、たまたま東広島に帰ってしまいましたので、一旦単身生活は中断となりました。そのうちまた、単身生活に戻るであろうと期待しております。
山口で2年努めたのち、平成25年から防府営業所勤務となり、ここで初めて事業場統括という立場になりました。いきなり営業所長を拝命した際には、かなり戸惑いがありましたが、防府営業所も山口統括支社管内でしたので、顔見知りも多く、すんなり溶け込むことが出来ました。ただ、防府という町は基本的に何も知りませんでした。プライベートでも子供の合格祈願のため、防府天満宮に行ったことが有るだけでしたので、色々と勉強しなければいけないと強く感じて着任しました。防府にはいろいろ見て回るところがたくさんあります。先ほど申しました防府天満宮や毛利氏庭園、そしてあじさい寺と言われています阿弥陀寺などが有名です。
そして防府天満宮の御神幸祭(ごしんこうさい)が有名です。別名裸坊祭りと呼ばれ、さらしに白ズボン、白足袋で上半身裸で神輿を担ぎ、御網代(おあじろ)を引きずることから一般的にはそちらの「裸坊祭り」と呼ばれています。実はわたしも、2度ほど参加しました。Yahooの検索サイトにも多数出ておりますので、一度見ていただければ、そのお祭りの迫力が味わえるかと思います。
そして、入会時にご紹介いただきましたが、防府におりました時に、初めてロータリークラブとかかわらさせて戴きました。クラブ名は防府ロータリークラブです。入会当初は何も判らず戸惑ってばかりでしたが、親睦委員会に所属し、その活動を通じて会員の皆様とも徐々に親しくさせて戴くことができました。
そんなこんなで防府での4年間が終了し昨年東広島に帰ってきたということです。
西条ロータリークラブは私としては2クラブ目となりますが、まだまだロータリー精神が染みついているとは言えませんので、これからも皆さんと親睦を温めながら、ロータリー精神を磨いていきたいと思っていますので、引き続きのご指導よろしくお願いします。
以上で私の卓話を終わります。ご清聴ありがとうございました。